自民党の女性局長を務める松川るい参院議員ら同局メンバーが、フランス研修中に「観光旅行」にみられかねない写真を交流サイト(SNS)に投稿して物議を醸している。
研修はフランスの国会議員らと少子化対策などの意見交換をするのが目的だったというが、パリのエッフェル塔前でポーズを決めた写真などを投稿したため、「旅行気分だ」「感覚がずれている」などの批判が殺到、大炎上状態となった。
(「「エッフェル姉さん」炎上に思う「庶民感覚」」参照)
批判の大きな理由が「庶民感覚の欠如」。ちょっと「庶民感覚」について考えてみた。
過去にも「庶民感覚の欠如」と批判された事例がある。思い起こされるのが、麻生太郎が首相当時カップ麺の相場を聞かれ「400円くらいですかね」(当時130円くらい)と答え、「庶民感覚が無い」と非難された。また、安倍晋太郎元首相も総裁選の決起集会で食べたカツカレーが3,500円と分かると、やはり「庶民感覚がぁ~!」と批判された。
では、麻生太郎(首相)が「スーパーAは130円だけど、スーパーBは124円だった。スーパーCは安売りで120円で売ってましたよ」なんて答えたらどうだろう? 「庶民感覚があるなあ」と褒められただろうか? 「そんなことより、首相として政治をしっかりやれ!」って、違う批判をするのではないか?
安倍元首相の決起集会も同様だ。総裁選出馬という、ある意味決戦だ。特に安倍氏の場合、政治家としての再起がかかっていた。失敗したら党内での政治生命を失う恐れもあった。そういう集会で「500円のカツカレー」で頑張ろーってやったらどうだろう? 政治資金にも窮してるのか、などと言われるだけだろう。TPO的にもどうなんだ? という意見も出るかもしれない。
結局は批判となるのは時と場合であったり、他との比較でしかない。一番大きいのは「誰が」ってこと。そこには「批判こそ我が使命」と考える勢力がいることだ。そう、朝日新聞などを中心とした左派メディア、極左団体(朝日などは市民団体と呼ぶが)、左派論者(コメンテーター)など。それと政策の素養もなく、明確な国家感も持っていない口だけ達者な野党議員。
「庶民感覚」って言葉は都合良く使われているだけだと思う。国家・国民のために行う施策の、優先決定要因が「庶民感覚」ではないだろう。もちろん無駄遣い的なものはダメだが。
いやいや施策の話ではなく、政治家の資質としての「庶民感覚」だと言われるかもしれない。政治家としての初心のようなことを言っているなら否定はしないが、「庶民感覚」が政治家に求められる第一要素とも思わない。「政策立案力」「実行力」「行動力」「調整力」とか。それこそ多数ある中のひとつだと思う。
エッフェル姉さんや今井絵理子が問題なのは「庶民感覚の欠如」じゃなく、政治家としての「想像力の欠如」だ。旅行のスナップ写真を連想させるような写真をアップすれば、こういう批判が起こるのではないかということすら想像できないエッフェル姉さん。これが問題なのだ。
個人的には「庶民感覚」より「政治的想像力」の方が重要だと思う。「想像力」と言うとただのイメージ論に聞こえてしまうかもしれないが、そうではない。ひとつの施策を行おうとすれば、それに伴う様々な要件を考慮する必要がある。「想像力」はいろいろな意味での実力に裏打ちされていなくてはいけないのだ。
そういう意味では、今回のエッフェル姉さんらは「箸にも棒にも引っかからない」レベルである。余談だが、蓮舫の「ブーメラン」も「想像力の欠如」のひとつだ。
最後に一言。とある政党が強調する「生活者目線」(ある意味「庶民感覚」)。その中で「子育て中のママ」(これも、ある意味「庶民感覚」)を強調して当選した議員が、「給与住居てとう」「通勤てとう」「期末てとう」「退職てとう」を連発。
庶民感覚を売りにしていたのに「手当(てあて)」など気にしないで、これまで生活してきた人物だったという笑い話。「てあて」を「てとう」と読む人物に、「庶民感覚」などまったく感じないがどうだろう。でもこの議員が「庶民感覚の欠如」と批判されることはない。さらには「漢字が読めない議員」と批判されることもない。
当然、朝日新聞のデジタル版でこの議員のことを検索しても「てとう」発言は出てこない。これが物語っていることがすべてだと思うけどね。
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