元毎日新聞記者で沖縄返還を巡る日米交渉に「密約」があったとする文書を入手した西山太吉氏に関しては、その人物評価が立場によって大きく異なるだろう。

保守系の人たちからすれば「違法」な手段で情報を入手したうえに、その入手方法は法的だけでなく道義的にも問題があったと批判される。しかも、その情報源(外務省の女性事務官)を守ることすらしなかったから記者失格だと。

左派系からは取材手法への大きな批判はなく、「政府の密約を暴いた」「政府(権力)を追求した」記者の鏡のように評価されている。朝日新聞も西山を持ち上げる社説を書いている。(「朝日新聞の『知る権利がぁ~!』って恥ずかし過ぎる」「その2」参照)

もちろん、その人物評が一通りしかないことはないだろう。好評価・悪評価がそれぞれあるのが当たり前だ。

しかし左派系の人たちの西山評に少し違和感を覚えたことも事実だ。上記のような(反権力の記者、権力を追求した記者)評価はいいとしても、西山を持ち上げるために他者を必要以上に悪者化している論評が目につく。

佐高信は「情報提供者を守らなかったのは横路孝弘(故人、旧社会党衆議院議員)」と言い、澤地久枝は「西山さんは悪い女(女性事務官のこと)に引っかかっただけ」と言う。

この2人の言い分は明らかに正しい評価ではない。西山の取材法に対する「悪事感」を薄めようとしているだけに感じる。そうやって相対的に西山を持ち上げるのは正しい西山評なのだろうか?

佐高は左派系評論家として著名だし、過去には週刊金曜日の編集者をやっていた。澤地は「アベ政治を許さない」というキャッチフレーズの発案者。どっちもコテコテの左翼活動家。ご両人は「活動家」と言われるのには不満かもしれないが。

横路がどうのよりも西山が情報源(女性事務官)を守り抜く態度を取り続けなかったことは周知だ。また、女性事務官のせいで西山が有罪になったわけではないだろう。普通に考えれば、西山の道義的責任が問われるのは当然だ。

結局、2人の言い分は「ひいきの引き倒し」でしかない。この2人が好きだと思われる土井たか子も「ダメなものはダメ」って言ってたじゃないか。