「あいちトリエンナーレ2019」の負担金の一部支払いを拒んだ名古屋市に対し、名古屋高裁は全額の支払いを命じた一審判決を支持し、市の控訴を棄却した。
「あいちトリエンナーレ2019」の一部展示物はあまりに酷く、とても「芸術作品」と呼べるような代物ではなかった。「表現の自由」との兼ね合いからしても、「誹謗中傷」と取れる悪意の満ちたものがあった。
様々な意見があることは理解しているが、名古屋高裁が「表現活動に反対意見はつきものだ。なかでも芸術活動は多様な解釈が可能で、ときには斬新な手法を使うため、鑑賞者に不快感や嫌悪感を生じさせてもある程度やむを得ず、ハラスメントなどと軽々しく断言できない」との一審内容を支持したことには、大きな疑問を感じる。
朝日新聞は判決がよほど嬉しかったのか「芸術祭判決 安易な介入 許されない」(12月9日社説)で、「憲法が保障する表現の自由を重視し、うなずける判断だ」と嬉々として書いている。しかし朝日は2015年1月19日の社説「表現と冒とく 境界を越える想像力を」で、次のように書いている。
「ある人々による風刺表現が、別の人々に侮辱と受けとめられる」「(表現の自由は)どんな場合でも無制限というわけではない。無分別な表現は、個人や集団、民族などの名誉や尊厳を傷つける『暴力』にもなりえる」「自分にとっては当たり前に思える常識や正義が、他者にとっては必ずしもそうではないという想像力。それがあっての表現の自由である」。
これは2015年1月に発生したイスラム教予言者・ムハンマドの風刺画を掲載したフランスの風刺新聞が、イスラム教徒(過激主義者といわれる)に襲撃された件についての社説だ。
つまりは、キリスト教世界の人々にとっては「風刺」かもしれないが、イスラム教世界の人々からすれば「侮辱」であり「尊厳を傷つける暴力」になる。「表現の自由は無制限ではない」と言っている。
朝日は今回の判決の「昭和天皇や戦時中の先人たちを侮辱」しても、ある程度は「やむを得ない」。「ハラスメントなどと言うな」との論旨に反論しなくてはいけないのではないか? 先の社説で言っていることと、今回の社説で言っていることに矛盾があるのではないか?
結局は、朝日は自分らにとって「都合が良いか悪いか」のみで「表現の自由」を論じるダブスタ新聞でしかない。
2015年の社説で「自分にとっては当たり前に思える常識や正義が、他者にとっては必ずしもそうではないという想像力。それがあっての表現の自由である」と書いた朝日こそ、想像力を働かせなくてはならない。
仮に朝日側の人物が「芸術作品」でけちょんけちょんに表現されても、「誹謗中傷に表現の自由などない」とか批判してはいけない。それが名古屋高裁判決を「うなずける判断だ」とした朝日の社論だからだ。
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