広島県呉市の谷本誠一市議が釧路空港から羽田空港に向かうエア・ドゥの機内で、マスク着用を拒んで離陸前に降ろされていた(知人男性も)。谷本らは客室乗務員による再三のマスク着用要請を拒否。このゴタゴタのせいで出発が1時間以上遅れることとなった。

こいつらのせいで、乗客44名の貴重な時間が無駄になったことになる。しかも、谷本の言い分が独善的で呆れるしかない。

「飛行機でマスクを強制することはできません。マスク着用はあくまでもお願いですから、拒否してもいいわけです。責任はエア・ドゥ側にある。私が降ろされたことは、明らかに基本的人権の尊重などに抵触する憲法違反なのです」だそうだ。

谷本の主義・主張を否定するつもりはまったくない。しかし権利を主張する裏には、当然のことながら「義務」や「責任」が伴うのだ。さらには、それが「マナー」であったり「エチケット」であったりする。こういうものは他人への「思いやり」と言ってもいい。

最近、非常に多くなった自分の「権利」ばかりを主張する人間。朝日新聞などを中心に、やたら「権利がぁ~!」という風潮がはびこってきている。そういう連中に限って、自分の主張は絶対的に正しいのだから、批判されるいわれはないと考えている(傾向がある)。

*朝日は旅客機内で同様の騒動を起こした人物を「同調圧力の被害者」みたいなスタンスでインタビューし、記事化したことがある。

谷本に聞きたい。例えば、こんなことがあったらどうだろう? 谷本の親族の葬儀があったとする。そこに上下真っ白のスーツで現れた人物が、式の最中に携帯電話を鳴らした挙げ句に大声で「モシモシ。あっ、どうもぉ~」と始めたらどうする? 「出て行ってくれ!」となるだろう。

そうしたら、その人物が「葬式に白服で来てはいけないなんて法律はない。それに葬儀中に携帯電話に出てはいけないという法律もない!」とか言って騒いだら、谷本はどう思う? 「非常識にも程がある!」と思うだろう。

だが、谷本はこの非常識人物に文句を言える立場にない。谷本がやってることは、これと同じことだからだ。ここで重要なのは法律論ではなく、「マナー」であり「エチケット」であり、他人への「思いやり」なのだ。

谷本のノーマスク姿に不快な思いをした乗客もいただろう。そういう乗客へ谷本の果たすべき「責任」は何だろうか? しかも谷本は市議という公人だ。余計に他人への「思いやり」を考えないと行けない立場ではないのか?

自分の信念としてマスクは不要と考えるが、ノーマスクを不快に思う人がいるなら、その時はマスクを一時的にするとはならないものか? それが谷本が果たすべき「責任」ではないのか?

「一時でも主張を曲げたら負け」「謝ったら負け」と考えているとしか思えない連中が多い。谷本もそういう人種らしい。自分の主義・主張と他人への迷惑の軽重。どちらがより重いかは別にして、他人への迷惑に思い至らないことが不思議だ。

誰もが好き勝手に「権利」ばかりを主張したら、世の中どうなるだろうか? 結局、声の大きい人間が我がもの顔で闊歩することになる。そう、谷本や朝日新聞のような「ノイジーマイノリティ(ラウドマイノリティー)」ばかりが騒ぐ世の中になる。と言うか、もうなっている気がする。

確かに、先に書いたように「権利」は認められねばならない。しかし他人に迷惑をかける「権利」などない。しかも、それが「新型コロナウイルス感染症は、世界を操る闇の組織による陰謀なんですよ」などとの考えに基づいているのなら尚更だ。