東京五輪が閉幕した。いろいろな意見があるかと思うが、選手たちの頑張りとボランティアの皆さん含む大会関係者の努力により、「成功」と言えるレベルであったと思う。コロナ禍の中、やり遂げた事実は大きい。

選手の成績も金27個、銀14個、銅17個の合計58個と過去最高。もちろんメダルだけがすべてではなく、参加選手の一人ひとりそれぞれ感動があった。素直に「選手のみなさん、ありがとう」と言いたい。

ところが一部メディアやそのお仲間連中は、大会中からずっとネガティブ情報を流し続けた。やれ「日本選手には地の利があった」「不公平」などなど。

東京でやっているのだから日本選手に地の利があるのは当然で、それを「不公平」と言ってのける精神のゆがみ。すべてにおいて平等を言う人は、自分の所属する組織・団体、ネットワークがすべて「平等」なのか(運営・待遇・処遇など)、良く確認することをお勧めする。

また、五輪などの国際大会のたびに上記のような人たちが言うのが「日本がすごいのではなく、選手がすごいのだ」。良い悪いは別にして、五輪という国を代表しての競技に対して、どうしてこういう考えになるのか。

SNSなどでこう発言する人に共通するのは、ちょっと年配の左の人。「オールド左翼」の人たちと言える。この年代の人(極左メディア記者含む)ほど国からの恩恵を多大に受けているにもかかわらず、日本が嫌いなこと。そしてこういう人たちの頭にあるのは、

五輪などの国際大会=国威発揚・ナショナリズムの高揚=右翼・保守の台頭

という図式だろう。特に、金メダルでも獲ろうものなら日の丸が揚がって君が代が流れる。最悪だ! 象徴的な例は東京五輪閉幕時の社説で、朝日新聞と毎日新聞は五輪の結果に一切触れていない。結果を評価してしまうと、日本を認めてしまうことになるから。

古っ! としか言うことはない。ナチスドイツのベルリン大会(1936年)ではあるまいに。未だに国家レベルで、こういう発想でやっているのは中国くらいだろう。まあ、中国の場合は最後の等号(=)の右側は「共産党への忠誠」になるのだろうが。

国家レベルのスポーツ力は国家の力のひとつである。政治力、経済力、先進技術力、民主力(度)や文化力(度)などのひとつと考えられる。国家の総合力を判断するひとつの指標に過ぎない。

スポーツ力が上がったからと言って、右翼・保守勢力が台頭するなどと考えること自体が、時代遅れの発想と言える。こういう人たちは、すべてにおいて同じような発想をする。

ひとつ補足しておくが、スポーツ力は「何でも勝てば良い」という定義ではない。そこには相手を思いやり重んじるという精神を兼ね備えている必要がある。勝利への執着心は否定しないが、どこかの国のようなマナーも無視した過度の勝利至上主義は含まない。

コロナ禍の中、様々な対策を国民は国から要請されてきた。昨年の最初の緊急事態宣言時など、多くの国民が自粛をすることで感染の拡大を防いだ。するとオールド左翼は言う「国の施策が良かったのではなく、国民の頑張りだ」。この人たちは国民ではなく「市民」を使うが。

ところが、現在のようにデルタ株の感染拡大の中、なかなか政府施策だけでは感染を抑えられなくなってきている。するとオールド左翼は「国(政府)の施策が悪いからだ」と叫ぶ。

施策がうまくいくと「国民の頑張り」で、うまく行かないと「国(政府)が悪い」というのは、ご都合主義的過ぎないか? 国の施策がすべて成功しているわけではないが、評価すべきところは評価し、批判すべき所は批判するという態度がとれないものか。

何でも批判は一番簡単な方法である。それも無責任に煽るのが聞く側の耳に入りやすい。責任ある立場(政治家やメディア)の人や組織が取るべき手法ではないのは明らかだ。

こんなことをしているから一部政治家(政党)、メディア(新聞・TV)はまったく信用されない。当然だ。そして、これらを支持するのが「オールド左翼」の面々。残念ながら、どちらも時代に淘汰される日は近い。