新聞労連委員長・南彰(朝日新聞)が、2018年の福田康夫元首相のインタビューを引っ張り出して「きちんとした記録さえあれば歴史の一部の拡大解釈や過小評価は起きにくくなる」「外交にだって影響します。誠実に事実を積み重ねてきた国ということになれば、日本は信用される国になります」だそうだ。

福田元首相は典型的な「媚中・媚韓派」で、どういうことを念頭に言っているのかは、容易に想像できる。まあ、これはこれで元首相の考えなのでいいだろう。言いたいのは、これに南及び朝日が「そうだ、そうだ!」とはやし立てる資格があるのかと言うこと。

「きちんとした記録」があっても、福島第一原発・吉田元所長調書を曲解し、捏造記事に仕立て上げたのは誰だ? 言わずと知れた朝日である。

記録を残すことはもちろん重要なことだが、これを利用する人間の「特定の意図」が問題なのだ。意図的な曲解を許してしまえば、その記録は無意味になってしまう。

朝日は吉田元所長調書が一般に公表されていないことをいいことに、虚構を作り出した。そして、その虚構を元に東電と原子力行政を批判するという暴挙に出た。こんな朝日が「特定の意図」をもって「誠実に事実を積み重ねろ」との言葉を持ってきても、何の説得力もない。

さらに言えば、「特定の意図」をもった個人の詐話を裏取りもせず「きちんとした記録」のごとく偽装したのも朝日だ。「慰安婦強制連行」を吹聴した吉田清治を囲い込み、与太記事を書きまくった罪は大きい。

いまだに「誤報」だなどと取り繕い、身内の第三者委員会に大甘意見書を出させて済ませていることを恥じない朝日。しかも訂正記事にアクセスできないようメタタグを仕込むという恥の上塗りをしたのも朝日だ。

こんな朝日が少しも反省していないのは、最近の社説からも見て取れる。社説で乱発しているのが「勝手な仮定」だ。「~かもしれない」「~(だと)すれば」と事実に基づかない仮定を行い批判・否定する手法。これを許容してしまえば「きちんとした記録」などあってもなくても同じ事だ。

結局は朝日の言う「きちんとした記録」とは、朝日にとって都合の良い記録でしかない。そうでなければ「意図的曲解」「偽装記録化」「勝手な仮定による記録の朝日化」を行う。

こういう連中が書く記事に信憑性・信頼性が皆無なのは当然である。

南は9月で委員長任期を終え朝日に戻るようだが、まずは朝日自身の数々の捏造記事・悪質印象操作記事などの「きちんとした記録」の精査からやり直した方がいいだろう。望月衣塑子と連んでいるようじゃ、たかが知れてるけどね。