朝日新聞1月22日のコラム「多事奏論」は高橋純子の「映画の助成金不交付 感性の牢獄へようこそ」。映画「宮本から君へ」の助成金1,000万円が、ピエール瀧の有罪判決を理由に取り消されたことを批判している。
高橋はこの映画で「生きる力みたいなものが身の内で沸騰し、うおぉーと叫んで駆け出したくなった。理屈じゃない。エビデンスもない。作り手の『魂』に感応してしまった」。
良い映画に巡り会えて良かったじゃねぇか。それ以上でも以下でもなし。ただ「エビデンスもなし」は、過去の自分への批判の皮肉のつもりだろうが、まったくの逆効果。言わずもがなの一言。
高橋は製作会社社長や主演俳優の言葉のみを引用し、色々批判の基にしているが、助成金を不交付にした独立行政法人・日本芸術文化振興会には取材すらしていないようで、一切言及無し。不交付理由すら書いていない。
芸文振は文化庁所管で、政府からの出資(541億円)と民間からの寄付金(146億円)を原資とした運用益を使い、さまざまな活動に助成金を充てている。税金が入っていることは重要なことだと思うけどなあ。
高橋は一応「どんな罪かによっても判断は変わってくるだろう(中略)個別に考えるしかない」と書いているのに、なぜか「『そんなもんか』と慣らされ、考えなくなる。そしてそのうち、自分の思考に枠がはまっていることにすら気づけなくなってしまう」と大きく飛躍していく。
そして、結論は「ようこそ。クリーンで快適な感性の牢獄へ」だって。
結局は結論ありき。自分で旨いこと考えたなと自画自賛している結論に、どう話を繋げていくか。これだけの文章。
普通ならこの問題は、芸文振の「国が薬物使用を容認するようなメッセージを発信することになりかねず、公益性の観点から交付内定を不適当と判断した」に対して考察すべきだろう。これなく「そんなものかと慣らされ」とか「自分の思考に枠がはまっていることにすら気づけなくなってしまう」とかは、論理の飛躍どころか、論点がまったく違うことだろう。
でも高橋は芸文振興の不交付理由すら書かない。「俳優の不祥事と芸術性は別問題」とかの切り口は陳腐と感じたのか、読者の支持を得られないと考えたのか知らないけど。
高橋のように不交付を批判する人もいるだろうし、逆に不交付を当然のことと考える人もいるだろう。その物事をどうどう捉えるかには、朝日の好きな「多様性」がある。
まあ、コラムなので高橋の剥き出しの本性で書いて構わないのだが、いつも自分の言い分と一方側の言い分しか書かない。書かれなかったもう一方の当事者の「多様性」は無視される。でもこれが朝日の「多様性」。
そして、なぜか最後は安倍首相批判。珍しく安倍批判が出てこないなと読んでいたら、最後の最後で出てきた(苦笑)。これは明らかに無理筋。安倍批判を入れないと、高橋は精神の安定が図れないようだ。
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