朝日新聞って、本当に日本が嫌いなんだなぁ。いつも思うことだが、またまたこじつけでお花畑論を振りかざす朝日新聞。12月8日の「ローマ教皇、かざした羅針盤」(日曜に想う)を読んで、改めて実感した。筆者は編集委員の福島申二。
ローマ教皇・フランシスコが来日し、広島・長崎でスピーチした内容を絶賛している。
「今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、(財が)築かれ、日ごとに武器はいっそう破壊的になっています。これらは途方もないテロ行為です」(長崎)。
「戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。・・・武器を手にしたまま愛することはできません」(広島)。
尤もなことではある。これを受け、福島は「『安全保障上の現実』という言葉の僕になってはいけない。日本人は、日本政府はそうなっていませんか」だって。
教皇やキリスト教徒の皆さんを批判するつもりはまったくないが、「現実」を前にキリスト教が何をやってきたのか? 十字軍、異端審問、侵略の正当化。みなキリスト教が「現実」に対して行ってきた行動だ。
過去にいろいろあったから、現在の発言に意味がないとは言わない。言いたいことは、現在、慈しみの言葉を投げかける教皇(キリスト教)でも、いざ「現実」に向き合えば、どう行動するか? 特に不利益を自覚すれば、利を得ようとするだろう。
なぜバチカンはアーミッシュを嫌うのか? アーミッシュは教会に行かず聖書のみに生きる。教会に行かなければ献金も洗礼代も取れない。だから惨殺した。終戦後、GHQが送り込んだ司祭のひとりが犯罪(殺人)を犯したとき、バチカンはどうしたか? 国外逃亡をさせた。
バチカンも「現実」を前にすればエゴを出す。
福島が「現実」を言うなら、もっと言わなければならない国がいっぱいあるだろう。ところが、福島がそういう国々を批判することはない。福島が決して批判しない国々の軍事的挑発という「現実」を前に、「現実につき従う僕になるな」と言う非常識の方が恐ろしい。「現実」には「現実的対応」が当たり前。
「理想と現実」のギャップは大きい。理想論のみを言っていればいい福島とは訳が違う。政府は国民の生命・財産などを保護しなければならない。そんな政府が「理想論」のみ語っていれば解決する問題などない。
近所で空き巣が多発していれば、防犯対策を強化するのが当然のこと。「世の中に悪い人はいない。そう信じていれば空き巣も入らない」と考えるのは勝手だが、これは「現実的対応」ではないことは明らか。でも、福島はそう言う。そう考えない日本人や政府を批判する。究極のお花畑論だ。
福島は教皇の言葉を使い日本批判しただけのこと。教皇にも失礼だ。まあ、教皇の言葉は素晴らしいと言うだけなら、朝日の記事にはならない。事実に角度をつけて、何でもかんでも日本批判に結びつけてこそ朝日の記事になる。そんな福島や朝日の性根が嫌いだ。
*朝日新聞、及び福島申二批判であって、教皇・キリスト教(教徒)批判ではないのでお間違えなく。
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