朝日新聞は日本の伝統や文化が大嫌いなのである意味当然なのだが、元号を無くしたいと考えている。3月21日の社説「『改元』を考える 時はだれのものなのか」を読めば明らかである。
「『平成』といった元号による時の区切りに、そんな意味があるのだろうか」「歴史を振り返れば、多くの権力は時を『統治の道具』として利用してきた」「『皇帝が時を支配する』とした中国の思想に倣ったものである」「人々がそれ(元号)を使うことには服属の意味が込められた」
権力者と国民を強者と弱者に位置づけ、強者が主導するものは何でも反対。そして、渡辺清の「天皇の死によって時間が区切られる。時間の流れ、つまり日常生活のこまごましたところまで、われわれは天皇の支配下におかれたということになる」とダメ押しをする。これを引用するということは、朝日の見解と同様だからだろう。
朝日新聞としては、この勢いで「元号は廃止すべきだ」との結論に持って行きたいのが見え見えなのだが、「元号という日本独自の時の呼び方があってもいい」と、苦渋の言い分。
なぜか? 朝日新聞の世論調査で、「日常生活でおもに使いたいのが新しい元号だと答えた人は40%」もいるからだ。ちなみに西暦を使うは50%。西暦派50%も、ビジネス上西暦を優先すると言う人も多いだろう。朝日と同じ理由で西暦という人もいるだろう。世論調査からは西暦派の内訳は分からない。50%のすべてが朝日的元号論とは限らない。
自社の調査結果から、さすがの朝日も持論を全面的に出すことを躊躇したようだ(苦笑)。散々、元号文化を腐しておきながら、何を言ってるんだと思う。
「人間が集団生活を営むうえで、時をはかる『共通の物差し』は不可欠のものだ」と言う一方で、「しなやかな複眼的思考を大切にしたい」とも言う。こんな中途半端な言い方をしないで、「元号は廃止、西暦での一本化」と堂々と主張すればいい。
現在も主に元号を使う人、主に西暦を使う人は混在している。改元されても同様だろう(朝日の世論調査結果からも窺える)。こういう現実を知りながら、わざわざ「権力者が時を『統治の道具』として利用してきた」なんて書くほど元号という日本の文化・伝統が嫌いな朝日新聞。
朝日は西暦・イスラム暦・仏暦・ユダヤ暦などいろいろあるが、元号は改元があるからダメだ的なことを書いている。じゃあ「皇紀ならいいのか?」と突っ込んでおく。
関連
「元号の話」
コメント