朝日新聞の11月20の「耕論」。「冷たい自己責任論」とのタイトルで3人の識者(?)に語らせていた。朝日新聞が選んだ人たちなので、朝日新聞の論調にそった経験談や考えを語るのは当然だけど。
ここで言いたいのは3人の言い分ではなく、朝日新聞の「お題」の前提だ。「紛争地取材で窮地に陥ったジャーナリスト」って安田純平のことを指しているのだろうが、前段がすっぽり抜けている。危険な紛争地域に政府・外務省の制止を聞かず、自ら「自己責任で行く」と啖呵を切って行ったのだ。
これを抜きに「冷たい自己責任論」はないだろう。不可抗力で拘束されたのではなく「必然」だったのだ。先日も石川智也が「運悪く拘束されたことは、謝罪するほどの罪なのか?」「(自己責任などは)目にしたくもない言葉」とバカなことを書いていたが、安田を「反政府の闘士」的な扱いをし、シンボルに祭り上げようとする性根の悪さにうんざりする。(「朝日新聞・石川智也の勘違いは朝日新聞の体質を表す」参照)
記事の中で語っている3人も、拘束された前提が抜けているように見える。ひとりが「個人に責任を押しつけるような社会でいいのか」と言っているけど、その行動の主体性によるのは言うまでもない。「公」としての行動なら、内容にもよるが「個」に責任を押しつけるのは確かに違う。しかし「個」としての行動を「公」の問題にするのはおかしい。あくまでも「個」の責任だろう。
「個」は「公の中の個」ではなく、あくまでも「私」である。無謀な「私」の行動に「公」が対応しなくてはいけなくなった現実は、決して省いてはいけない大前提だ。これ抜きに何を語っても詭弁でしかない。
これが分かっていないのが朝日新聞を始めとしたオールドメディアだ。実は朝日新聞がいつも擁護する日教組の連中もこの典型だ。入学式・卒業式で君が代・日の丸に反対して不起立で処罰されるアホ教員がいる。
こいつらも「公立学校の教師」という「公」の立場と、「君が代・日の丸が嫌い」という「私」の区別がついていない。「公」の中で「私」がある程度制限されるのは当たり前だ。嫌なら「公」から抜けるしかない。
この「公」は「公的機関」だけでなく、身近なコミュニティも当然含まれる。「組織」と言ってもいいかもしれない。企業の中で「オレはやりたくない」と言っていたらはじかれるだけ(法律・法令違反は別)。それなのに「私」を優先しようとすることに疑問を持たない。それどころか「当然」とすら考えている。まあ、世間知らずなんだろうけど。
朝日新聞も「公」「個=私」の区別がついていない。もしかしてジャーナリスト(自称も含め)は、存在自体が「公」だとでも考えているのか?
安田のケースを自社の記者と置き換えたら、朝日新聞はどう対応する? 会社(「公」)が行くなと制限した場所に、記者が「個人(私)として行く」と出かけていって案の定拘束された。「よくやった、英雄だ」と記事にするのか? そうしたい記者は大勢いるかもしれないが、会社としては「だから言ったろう。何やってんだよ」ってならないか。
それが普通の反応ではないのか?
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