東京新聞の自称記者であり、その実は左翼活動家の佐藤圭。佐藤がツイッターで「記者の仕事とは、権力に媚びることでないのは当然のこと、どっちつかずの姿勢をとることでもない。ジャーナリズムが、少数者、弱者、権力にアンチのつぶてを投げる人たちの側に軸足を置いてこそ公平や平等は実現する。それを活動家と呼びたければ、どうぞご自由に」。

まあ、佐藤なりの記者像を言ったのだろうから、それはそれでいいけど。でも、「普通」の人が描く記者像とは大きく異なるのは言うまでもない。

「記者の仕事とは、権力に媚びることでないのは当然のこと」まではいいとして、「どっちつかずの姿勢をとることでもない」は明らかに違う。それ以前に記者の仕事の本質は「事実を報じる」ことである。

その「事実」に佐藤のフィルターを通してしまったら、それは「事実」ではなく「佐藤の考え」になるからだ。さらには、自身や自社に都合の悪いことは報じないという姿勢は、何をか言わんやである。

まあ、これは佐藤に限ったことではないが、こういう記者が多すぎる。

「少数者」「弱者」「権力にアンチのつぶてを投げる人たち」に軸足を置くと言うが、実はこれも佐藤の定義する「少数者」「弱者」であり「権力に云々する人」なのだ。つまり、佐藤の中での虚像でしかない。

その虚像に軸足を置くと「公平や平等」が実現すると言う。これは、ただの自己満足しかない。「弱者のために記事を書くオレって格好いい」ということ。普通に考えれば、どちらかに軸足を置いた段階で「公平・平等」ではなくなる。

つまり「事実」を踏まえて客観的に物事を把握・理解する。その上で、どうあるべきかを論じるべきである。この前段抜きに、最初から自分の考える「弱者」「少数者」ありきで物事を判断すれば、当然「事実」は歪む。

例えば、「公共の利益」の前には不利益を被る人もいる。そういう立場の人を「弱者」と定義してしまうと、利益を得られるはずだった「大多数」の人々が、逆に不利益を被ることになる。最初に「弱者」ありきでは「事実」すら見えなくなってしまう。

それに、佐藤が「左翼活動家」と言われるのは、記事内容だけのことではない。ツイッターで左翼団体の抗議デモを告知したり、極左組織の内ゲバを擁護したりしているからだ。

佐藤は新聞記者としての信念から「活動家と呼びたければどうぞ」と言ったのだろうが、そんなに心配することはない。誰も佐藤のことを新聞記者などとは思ってなく、最初から左翼活動家だと思っている。

だから、改めてそんなことを言う必要性はまったくないということ。