日本維新の会・足立康史衆院議員が「朝日新聞、死ね」とツイートし、騒動となっている。足立議員の気持ちは分からなくはないが、オレ的には「死ね」という言葉は受け入れられない。政治家だからではなく、人間として言葉は選ぶべきだ。(足立議員は今後は「朝日新聞、廃業しろ」にすると言っている)

昨年「日本死ね」が流行語大賞になったときも、苦々しく思っていた。一般市民なら言っても良いとも思わない。これを機に待機児童問題に取り組んでいると自称している山尾志桜里が不倫騒動を起こしたのはシャレにならないけど。

ところで、名指しされた朝日新聞は発◯気味だ(苦笑)。11月18日の社説「政治家の言論 その荒廃ぶりを憂える」で批判をしている。批判するのはいいだろう。朝日新聞にも面子はあるので。

その中で、「『死ね』という言葉には、感情的な敵意のほかにくみ取るものはない」と言ってるが、同じ社説内で「『保育園落ちた日本死ね』は政策に不満を抱える市民の表現だ。
国会議員の活動での言動は同列にできない」と言っている。アホかと言いたい。

確かに、国会議員の発言と一般国民の発言は重みが違うかもしれない。だからといって「死ね」を肯定することが許容されるとは思わない。結局は、朝日新聞のご都合主義(ダブスタ)でしかない。それに、朝日新聞に対する「死ね」は「敵意・感情」だが、国家に対する「死ね」は「政策に対する不満」だとは呆れる。

昨年から朝日新聞は、この発言(ブログだが)を持ち上げてきた。「悲痛な叫び」だとか言って。また、たくさんの記者連中もツイッターで同様の発言をしている。

政策に対する不満なら「死ね」を使ってもいいのか? 言葉を生業にしているくせに、ずいぶんとご都合主義ではないか? まあ、ご都合主義は朝日新聞の専売特許ではあるが・・・。

朝日新聞の言い分では、政治家はダメだけど一般国民が朝日新聞の論調に対する不満や捏造、恣意的な曲解などの不満を「朝日新聞死ね」と言っても何ら問題ないことになる。

こんな言葉を使うまでもなく、朝日新聞がクズなのは周知なので。

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