村田蓮舫の二重国籍問題は、政治家としての資質の無さを曝け出すことになった。

指摘に対してとってつけたようなその場しのぎ発言を繰り返し、あげくには被害者気取りで「悲しい・・・」だって。最終的にはすべてのウソがばれ、しぶしぶ二重国籍を認める恥ずかしさ。危機管理能力の無さを曝け出し、公人としての自覚もないことが明らかになった。

現在もまだ批判はくすぶっており、戸籍などのエビデンスを提示しろとの要求もあるが、公人である政治家なのに「個人的なこと」と拒否する始末。まあ、蓮舫のこのような態度に対しては、国民がきちんと判断するだろう。

ところが、一部その筋の方面からは「差別だ」「排外主義だ」とか、すり替え論が出てきている。典型的なのが神奈川新聞のデスクノートとかいうコラムだ。報道部の石川学という記者が書いている。「法的問題がないのに猜疑のまなざしを向ける。それをレイシズムという」だってさ。バッカじゃないの?

最近は自分やそのシンパにとって都合の悪いことを指摘されると、何でも「ヘイトスピーチ」だとか「レイシズムだ」、「差別だ」という風潮が出ている。なんと便利な言葉だろうか。

確かに、行き過ぎた発言や罵詈雑言は戒めなければならないが、真っ当な批判に対してまで、「ヘイトスピーチだ」「レイシズムだ」「差別だ」と言葉狩りを行い、批判を封じ込めようとするはどうなんだろうか? それを言論で勝負しなければならない新聞が堂々と行っている。恥ずかしいと思わないのかね。