朝日新聞9月27日の社説「あいち芸術祭 萎縮を招く異様な圧力」に関しての2回目。
(「朝日新聞の『表現の自由がぁ!』には笑うしかない」参照)

朝日は、あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」の中止を批判し、その後の文化庁の補助金不支給も批判する。そして「このまま10月14日の会期末を迎えれば、表現活動が不当な攻撃に屈して終わることになる」「圧力をはねのけ、傷ついた表現の自由を回復するために、第一歩を踏み出すことが肝要だ」と社説を締めた。

「不当な圧力」と書くけど、脅迫の類いと批判はきちんと区別しないといけない。朝日は「脅迫や執拗な抗議」というような言い回しで、この辺を曖昧にしている。

もちろん「脅迫」がダメなのは言うまでもない。しかも「暴力」を臭わせるような物言いは決して許されない。ただ、こういうものと「まっとうは抗議・批判」を同じ土俵の乗せ「不当な圧力」と言うのは間違いだ。

今回のような自社思想にマッチしたものへの抗議は「不当な圧力」となるが、右派の表現者・論客の講演会が抗議で(しかも暴力を臭わせるような)中止になっても、決して記事にしない。当然だとでも考えているかのようだ。

特定の右派団体の行き過ぎたデモや集会などを「ヘイト」として大々的に報道するが、沖縄で暴れている左翼活動家連中の違法で暴力的な活動は「市民団体の抗議活動」などと書く。彼らがどんな「抗議活動」をしているかは絶対に書かない。

擁護が追いつかないときは話をすり替える。慰安婦問題がその典型だ。「強制連行」が否定されると、自由がなかったから「広義の強制性」などと言い出す。それも否定されると「女性の人権問題」と言い出す。

立憲民主党(当時は民進党)の蓮舫に二重国籍問題が持ち上がった時も同様だった。国会議員が国籍法違反を犯していたにもかかわらず、「人権侵害」と話をすり替え擁護した。蓮舫のウソにウソを重ねた言い訳を「説明が揺れた」と書いたのには笑ったけど。

記者連中も、新語・流行語大賞で「保育園落ちた。日本死ね」が受賞したとき、日ごろ「批判するときほど冷静に。一番やってはいけないのは、死ね、殺す、殴るなどの言葉を使った段階で正当性を失う」と偉そうに言っていたヤツ(伊丹和弘)が、途端に「子育て世代の悲痛な叫びであるゆえに大きな共感を生んだ」とか言いだす始末。

このように朝日の「ダブスタ」はいつものことだ。そのすべてが、自社にとって都合が良いか悪いかが判断基準になっている。

朝日の記者連中はこういうことを何とも思わないのだろうか。普通なら「恥ずかしい」と思うものだが。まあ、なんとも思ってないんだろうな。「不当な圧力」「傷ついた表現の自由」などという裏で、自社批判には「スラップ訴訟」を仕掛けるような新聞社だからね。

言論人としての矜持などを求める方がどうかしているということだ。