前回、佐野研二郎のパクリ体質はデザイン業界そのものの体質であることを書いた。
(「佐野研二郎のパクリ体質とデザイン業界」参照)

佐野研二郎のパクリを次から次に指摘しているのがネット民と呼ばれる人々である。ネット民の探索力は素晴らしいものである。このデザインの元ネタを良く探してきたもんだと、感心するばかりである。

そんなネット民に苛立っているのが朝日新聞である。朝日新聞の慰安婦捏造に関しては、今も批判の声は多い。特にネットでは様々な批判の声で溢れている。

朝日新聞はいわゆる「慰安婦問題」に関して、吉田清治の詐話記事を取り消しただけで、素直に反省することもなく被害者ズラをしている。なので、今も批判にさらされるのは自業自得で当然である。

そんな朝日新聞のネットに対する苛立ちが現れたのが9月2日の記事だ。佐野のパクリ問題に関して、「ネット社会での徹底的な疑惑追跡に『自由な発想にブレーキがかかる』との声もある」

典型的な朝日手法の記事だ。「との声もある」と書いているが、誰の声なのか主語は書かれていない。安倍首相の戦後70年談話の主語があいまいだ、とかほざいていた朝日新聞が、主語のない記事をいつもの通り書いている。「との声もある」という言い回しは、朝日新聞の常套句なのはみんな知っていること。

誰の声か?? それは朝日新聞自身の声である。

朝日新聞が言いたいことは、「ネット民はやり過ぎだ」ということ。佐野のパクリ追及もそうだが、朝日新聞への批判もやめろと言いたいだけ。メインは朝日批判の方かもね。

しかしバカな記事を書いたもんだ。佐野の件に関して言えば、パクったデザインが「自由な発想」に基づいている訳もなく、ネット民への批判のための批判でしかない。

まあ、朝日新聞のお得意が「批判のための批判」「反対のための反対」であることを考えれば、この記事も朝日新聞的には当然なんだろうな。