小渕優子に関する3回目。

前回、小渕優子が辞職したら、後釜は中曽根康弘元首相の孫に選挙区を奪われるので、そう簡単には辞職はできないって書いた。(ただ、辞職せざる得ない状況は変わらず)
(「小渕優子は「進むも地獄 退くも地獄」だ」参照)

はっきり言って群馬県では、小渕は福田派からも中曽根派からも嫌われているのだ(笑)。

まず、小渕優子は3世である。一部マスコミが2世代議士と書いているが、これは間違いで3世である。(「小渕優子が首相候補???」参照)

小渕家1世の光平は選挙に弱かった。
昭和22年(1947年) 落選
昭和24年(1949年) 初当選
昭和27年(1952年) 落選
昭和30年(1955年) 落選
昭和33年(1958年) 2度目の当選 3ヶ月後死去
こんな感じで、当選2回に対して落選3回だ。

で、以下は福田支持の古老の話。選挙に弱い光平をみかねた福田赳夫が、光平のために票を回し助けた。そのおかげで光平は当選した(昭和33年の話)のに、田中角栄の元に走った。そのため、福田支持者は小渕を快く思っていない。(福田支持者は、とにかく田中角栄が嫌いなのだ)

今度は中曽根支持の古老の話。
小選挙区制に移行した際、4区は中曽根、5区は福田と決まったのに、当時自民党副総裁で群馬県連会長であった小渕恵三が無理に割り込んできた。そのあおりで4区福田、5区小渕となって、中曽根は小選挙区から追い出された。そのため中曽根支持者は小渕を快く思っていない。

つまり、小渕は1世・光平、2世・恵三の振る舞いから、結果的に福田派、中曽根派の群馬県2大勢力から嫌われているのだ。群馬の政界で福田派、中曽根派は未だに健在だが(名称は残ってないが)小渕派などは昔から存在しない。

たまに県議がひとりで「小渕派だ!」なんて言っていたこともあったが、いつの間にかいなくなった。小渕が影響力を行使できるのは、せいぜい中之条町周辺だけである。(恵三の兄が過去町長を務めていたし、先日辞任した町長は元秘書だ)

ではなぜ小渕(特に恵三)が両巨頭の間で埋没せずやってこれたかと言うと、それは田中角栄をバックにしていたからだ。田中亡き後は竹下登を同様にバックにしていたため、結果的に首相にまで昇り詰めた。

現在の優子は額賀派だが、過去の田中派、竹下派時代の面影はなく、額賀福志郎が政治力を発揮し、優子のために選挙区を確保することなど夢のまた夢である。

群馬5区が中曽根のものになったら、もしかしたら中曽根の参議院枠を弘文(康弘の息子)引退後に譲ってもらえるかもしれない。それも、いつになるか分からないし、相当頭を下げざるを得ない。(ちなみに、参議院福田枠は山本一太)

ということで、優子は辞職した瞬間、衆議院議員として返り咲くことはほぼ不可能になるのである。低級マスコミが言っている「将来の首相候補」なんてのも、夢の泡である。